III. ヨーロッパ人のアメリカ入植

A. 最初の白人入植者

コロンバスや、その他のヨーロッパ諸国からの探検家はアメリカに来て、この新世界の資源を開発しようとしました。各々が、この未開の地の主導権を握ろうと必死でした。

 

 

1. スペイン人(Spaniards)の入植

コロンバスはアメリカ上陸早々、スペインの植民地をカリビアン諸島のあたりに作り始めました。コロンバスが最初に上陸したのは Hispaniola と云われていた地域で、それは現在ではハイチやドミニカ共和国のあたりになります。スペイン人入植者達は北アメリカ大陸、南アメリカ大陸の真ん中あたり、また現在のフロリダ州のあたりで生活を開始しました。

 

スペイン人入植者とインディアンの戦い

  • 1519年:スペイン人入植者はAztecインディアンを完全征服した。
  • 1539年:スペイン人入植者はIncaインディアンとの戦いに勝利した。

 

 

2. フランス人(French)の入植

実はフランスはヨーロッパの国の中で2番目にアメリカに入植しました。彼らはアメリカ大陸に上陸してすぐに、アパラチアン山脈の西だけに留まらず、北アメリカ全体がフランスのものであると主張しました。

 

フランス人が入植したのは1600年代初頭のことで、その入植地域はセント・ローレンス川からミシシッピ川、そしてメキシコ湾に渡ります。
フランス人入植者の主な目的は以下の2つでした。

 

・アメリカ先住民(インディアン)をキリスト教徒にすること(ローマ・カトリック)
・インディアンと取引をして動物の毛皮の貿易をすること

 

ほとんどフランス人入植者は狩人として、アメリカ大陸での生活を送っていました。1750年、New Franceの人口は約80000人だったそうです。

 

 

3. イギリス人(English)の入植

イギリス人入植者はアメリカ大陸東海岸に沿って入植していきました。イギリスの目的は、東海岸沿いに大きな都市をいくつか作ることでした。そして、その都市は戦略的に「家族」の集合で構成されるようにしました。フランスのように男だらけの狩人集団のような形態をよしとはしませんでした。

 

a. 1958年、Walter Raleigh は現在のノースカロライナ州東端にあるRoanoke島に、イギリスとしては最初の植民地を作った人物です。現在はこの島には長い橋(国道64号線)がかかり、車で行く事ができます。この植民地の住人達は、Raleighが物資をイギリス本土へ補給しに離れている間に、忽然と姿を消しました。

 

b. イギリス人入植者は1607年、現在のバージニア州のJamestown(イギリスの永続的植民地)でThe London Companyという会社を設立しました。ジョン・スミス船長が事業拡大に貢献しました。このジョン・スミスという人物は、ディズニーアニメの「ポカホンタス」にも登場します。この冒険的な事業は、以下4つの理由によって、非常に成功しました。

 

  1. イギリスを初めヨーロッパ諸国への煙草の輸出。煙草は貿易用の商品として非常に価値ある存在だった。
  2. 家族単位での入植を推奨したこと。家族という形態は、事業を支える労働力として、入植者の安定をもたらした。基本的に、多くの家族単位の入植者は残りの人生の全てをアメリカで過ごす覚悟をしていた。
  3. 入植者達は自由を得るためにロンドン・カンパニーで働いた。ロンドン・カンパニーは、入植希望者達をアメリカ大陸へ連れて行ってあげる代わりに、7年間はロンドン・カンパニーのために働くという約束をさせた。
  4. 入植者達は、自分達のルールを自分達で決められる権利が与えられていた。これこそが、民主主義の原点となった。同じ地域社会に属する人々は、民主的に自分達の生活に必要なルールを定めていった。

 

c. The Pilgrims(ピルグリム・ファーザーズ)

1620年、宗教的に背景にまとまった102名の集団が、MayFlower号にのってヨーロッパからアメリカ大陸へとやって来ました。彼らは、The Church of England (イングランド国教会)※から宗教的に迫害を受けており、信仰の自由を求めてアメリカに来ました。彼らは、やってよい事と、やってはいけない事を詳細に記した文書を作成し、自らを律しようとしました。この文書は彼らの船の名にちなんで「Mayflower Compact」と名付けられました。この文書に同意する者は、この文書にサインをして、この文書に記されるルールに基づいて行動することを約束したものでした。

 

※The Church of England (イングランド国教会)は、もともとカトリック教会に属していたが、16世紀頃の英国王がローマ教皇に従いたくなかったため独立した。

 

ピルグリム・ファーザーズが上陸した地は、現在のマサチューセッツ州の東端 Plymouth (プリマス)です。1620年12月16日のことでした。「Plymouth Rock」は彼らがMayFlower号から降り立った最初の岩だと言われいます。

 

入植初期のピルグリム・ファーザーズの生活は、かなりの困難を伴うものでした。極寒の冬、そして風土病が彼らを襲い、多くの人々が死亡しました。最初の冬を生き延びたのは102名中たったの52名だけでした。彼らが上陸した日は12/16であったため。冬に備える十分な猶予ががありませんでした。

 

ようやく冬を乗り越えて、夏になり、インディアン・コーン(Crops)を植え、収穫することができました。1621年の秋、収穫を終えた後、彼らは神に感謝する小さなお祭りを執り行いました。この小さいなお祭りのようなものが、現在のアメリカ合衆国における祝日「Thanksgiving」へと発展します。Thanksgiving dayは毎年11月の第四木曜日に催されています。

 

さて、ここまでご紹介してきたピルグリムは、The Church of Englandの一部としていることを拒否したキリスト教徒の一部のグループです。(The Church of Englandはイギリスの王様によって承認を受けたキリスト教組織)

 

The Church of Englandとの決別をはかったキリスト教徒達は「Separatists」と呼ばれています。なぜなら文字通り、公式のThe Church of Englandから Separate したからです。彼らは自分達の宗教的な信条を曲げることはありませんでした。The Church of Englandの政治的なリーダーシップからの迫害を恐れて、「Separatists」の一部の人々はオランダ(Holland)への移住しました。しかし、そこでの生活もそんなに容易いものではなかったため、102人の「Separatists」は結局、オランダを後にすることを決意し、アメリカ大陸へと活路を見出そうとしました。アメリカに向かう彼らの目的は、宗教的自由の獲得さらには、自分達のことは自分達自身で治めたちという自治の自由を得るためでした。彼らが後のThe Pilgrims(ピルグリム・ファーザーズ)として、知られるようになったのです。

 

d. マサチューセッツ湾植民地

ピルグリム・ファーザーズのように、当時のイギリスにはThe Church of Englandに対する不満、特に宗教的な思想を選択する自由に対する迫害に対する強い不信感を持つ人が少なからずいました。その中に「Puritans」と呼ばれる人々がいました。日本の世界史の教科書では「清教徒」と称される人達のことです。Puritansは、上でご紹介したPilgrimsと似たような思想信条を持っており、より清く厳格な教会を標榜していました。彼らが2000人くらいの集団となり、マサチューセッツへ集団入植したのは1630年のことでした。

 

やがて人数が増え過ぎたせいなのか、内部で宗教的な不和が生まれました。そこで1635年、Roger Williamsという人物が一部の人々を率いて、Rhode Islandへと生活の場を変えました。この活動が、アメリカにおける政教分離というコンセプトの始まりだったと云われています。Rhode Island州は日本人にとってはかなりマイナーな州の1つではないかと思うのですが非常に歴史ある土地で、マサチューセッツ州の南に隣接しています。
1640年までに、2万人以上ものピューリタンがマサチューセッツエリアで生活していたと云われています。彼らの中には漁業、農業、狩猟、林業を営む者もいました。もちろん貿易商人も沢山いました。

 

e. ニューアムステルダムからニューヨークへの改名

1621年、オランダは The Dutch West Indies Company という会社を設立し、アメリカ大陸への入植に着手しました。オランダからの入植者達は「New Amsterdam」と自分たちで命名した場所に入植しましたが、1664年にイギリスによって「New Amsterdam」は完全に制圧され、その後「New York」と改名させられたのでした。

 

アメリカ大陸における入植者の人口が増加するにつれ、次第に現在の「州」にあたる自治区のようなものが形成されていきました。Middle States と呼ばれる地域には以下のような州があります。

 

1624年: New York
1638年: Delaware
1664年: New Jersey
1684年: Pennsylvania(クエーカー教徒達による)

 

ちなみに「州」という表現が正式に用いられるのは、1776年の米国独立宣言以降の話です。

 

d. 南部の州的な自治区

1607年: Virginia
1634年: Maryland
1670年: South Carolina
1710年: North Carolina
1733年: Georgia

 

 

f. ニュー・イングランド

1620年: Massachusetts(ピルグリム・ファーザーズによる)
1623年: New Hampshire
1636年: Rhode Island
1636年: Connecticut

 

 

4. ヨーロッパ人がアメリカ大陸に渡った理由

当時、多くのヨーロッパ人がアメリカへと入植した背景には、以下の5つの理由があったと言われています。

  1. 単に冒険が好きだった
  2. お金持ちになろうとした
  3. 各国の王様の名声のため
  4. 新天地での第2の生活をスタートしたかった-Land of 2nd chance
  5. 宗教選択の自由を得るため

 

 

5. 宗教的な場としてのアメリカ大陸

a. 多くのPriestsとMinisters がアメリカ先住民であるインディアンをキリスト教に改宗させるためにアメリカ大陸へ渡った。

b. 多くの人々が自分達が信じる宗教(キリスト教の宗派)の教義に基づいて生活できる自由を夢見て、アメリカ大陸へ渡った。

  1. ピルグリム・ファーザーズ(The pilgrims)
  2. ピューリタンズ(The puritans)
  3. その他のグループ

 

c. 宗教的信念

  1. 聖書は神の言葉
  2. Jesusが唯一の神であり、人間が犯した罪に対する罰としてその身を捧げるためにこの世界に降り立ったことを信じるとき、その人間はキリスト教徒になることができる。Jesusは人間の世界で死んだ。
  3. 政府と宗教は分離されるべきだ



 

 

B. ヨーロッパからの入植者達の生活立ち上げ

アメリカでの過酷な生活

多くの入植者達を襲った最初の悲劇は「飢え」でした。残念なことに当時多くの人々が餓死しました。上陸当初、彼らは船で自国から持参した食物に頼って生きていかざるをえませんでしたが、それは非常に粗末なものでした。船は物資補給のため、ヨーロッパへと戻っていきましたが、アメリカ大陸までまた帰ってくるのには数ヶ月、もっと悪いときは数年を要しました。

 

新しい入植者達は、アメリカの地域や気候に合わせて、畑を耕し収穫物を得る方法を学ぶ必要がありましたが、これには最低でも1年くらい要しましたし、十分に食べていけるだけの収穫物を得るためにはもっと多くの年数を費やしました。この頃の入植者達の主な食料は、豆、ウリ、インディアン・コーンなどでした。

 

当然ながら当時のアメリカ大陸は未開の大地ですから、入植者達は自ら、自分達の住む家を建てなくてはなりませんでした。もちろん、ユンボもチェーンソーもありませんから、完全に人力と手道具を使った作業ですから、膨大な時間とエネルギーを要します。しかも、北の地域は非常に厳しく寒い冬となります。
風土病が流行し、それに加えて不十分な食物から来る栄養失調、粗末な家などが原因し、多くの入植者が死亡しました。入植時、120人いたピルグリム・ファーザーズのうち、最初の冬を越せたのはたった半数だけでした。

 

入植者が戦わなくてはならなかったのは、病や気候だけではありません。入植者達を敵とみなしたインディアン達との戦いも日常的なことでした。インディアンはヨーロッパからの白人入植者に対してのみ敵対していたわけでなく、他のインディアンの部族とも日常的に小戦争を繰り替えてしていましたから、白人入植者との対立は起こるのは自明でした。

 

しかし、入植者達の中にはインディアン達と良好な関係を築き、畑から作物を得る方法に始まり、その他生活に必要な様々なことをインディアンから教わる者達もいたようです。例えば、通常ならゴミにすすような魚クズを畑の土の中に埋めて、堆肥として利用する方法をインディアンが教えてくれました。

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